Kotobanoyukue

自分が何者か忘れぬように

人生のあきらめどころはいつか。

年を取るということは、何は自分はできて何が自分はできないかということを精査する能力が付くということだと思う。私は30代の今、これの精査ができない。あらゆることが自分の手に届きそうな気持ちでいる。

 

私は今日、田舎の友人と久しぶりに長電話した。彼女は経歴や学歴、生まれみたいな、いわゆる親が与えられるスペック’は私と変わらない。そして彼女も、私に負けないくらい‘地に足がついてない‘痛い妄想家だったのに。

 でも彼女は私より、いろいろなことを精査できる能力を得たようだ。

昨年彼女の新築のお祝いに家を訪ねた。彼女はスシローの寿司と、セブンプレミアムのワインでもてなしてくれた。これは私には衝撃だった。なんか「地に足がついて生きている」感じがしたからだ。この感想を彼女に伝えたら、彼女は「私はだんだん自分の生きる道が分かってきたのだ」と答えた。

友人夫婦そろってお堅い会社に勤め、郊外に新築を購入している、かたや私はいつつぶれるかわかないベンチャー、夫は自営。収入ギリギリまで浪費に費やして生きている。地に足をつけて生きる暮らし、私はできていない。

 

東京は選択肢が多い。だからいつまでもチラチラと可能性が目を掠める。友人は言った。「選択肢がなかったら夢見れないで済むよ」そして「私が夢を見なくなったのは、頭を使うようになったからだ。自分の人生のゴールを描けないやつに平穏はない」と。私はまだいろいろあきらめられない。ずっとぐだぐだ言いながらぐだぐだぐだぐだ育児しながら、働いている。いつかはっと目が覚めて見極められるのかな。それとも時間が気づかせてくれるのかな。‘自分ができることと、出来ないこと‘を。

 

私の好きな言葉。冷蔵庫にも貼っている。

(ニーバーの祈り)

神よ

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

識別する知恵を与えたまえ。

 

 

好きなのに私はまだ、この言葉を会得できない。