Kotobanoyukue

自分が何者か忘れぬように

恋は遠い日の花火でよいのだ

いい年して「恋がしたい」というと、世間からアホだと思われる(ということを私は知っている)。数年前、ママ友との飲み会をしたとき、「はー恋がしたい」「夫とはセックスしてもキスはしない」「誇り高き嬢かよw」と、ゲストークが始まった。そこで「あははー!でも今更どうでもいいよねっ!」とかで終わってればよかったんだけど、酔いが回った私は、しつこくこの話を継続しようとしたようだ。「ああ!もう1回でいいからときめきたい!」「このままじゃ死ねん!」とヒートアップしだしたとき「娘ちゃんがかわいそうだよ~」とやんわり諭され、不完全燃焼のままこの話は終わった。みんな表面的に話合わせてくれていただけで、私だけがノリノリだったという(後日この出来事を反芻し「うわー!」とデカめの独り言をいうハメになるという)。だから、私はコミュニケーションが嫌いなのだ。「コミュニケーション=自分がADHD(ズレズレ)なことを目の当たりにして恥をかく」の図式ができているから。君子危うきに近寄らず!娘の名誉のためにも、ママ会は極力控えねば。

それはさておき、なぜ私が恋をしたいと思っていたのか(今はそこまで思わない)、そしてなぜ、恋をするという行為がばかげて見えるのか考えてみた。

自分の場合、恋は「相手を愛すること」ではなく「限りなく自分を愛する」行為だったように思える。恋愛していた頃は、自分と相手との共通項(音楽、本、家庭環境)が見つけて喜ぶ傾向にあった。「この人自分に似てる!!!」と、相手を愛おしく思うと同時に、自分が今までの人生経験で得たセンスや思想が丸ごと肯定された気になるのだ。仕事、勉強、自分磨き、「そんなの小手先テクじゃわい!」てな感じでぜーーんぶすっ飛ばして「自分イケてる!」という無双状態になれるのだ。でもこんなのはコカインみたいなもんで、一瞬だけのスーパーハイ。そしてそのうち、同一視していたはずの相手が「自分と違う人間」ということに気づいてしまい、恋が終わる。バレンタイン前夜に、夜通しガトーショコラ作って長文の手紙を添えるみたいな、生産性のなさ、そしてその恋が終わるむなしさ。大人のみんなは知っているのではないだろうか。だからみんな「恋はもういいや」と表明するんだと思う。

愛(結婚と仮定する)は、地味だけどものすごく努力が大変で、子供なんか作った日には、バイトみたいに途中で投げ出せない。婚姻関係は雇用関係でいう正社員なのだ。だからまともな大人(社会人)は、既婚者で「恋が~」とかいっている人間は、「草であったまりてぇ」とか実名SNSでつぶやくバカ学生と同じレベルに見えるのだ。最近このことに私は気づき「恋が!恋が!恋が!」と、人前で言わなくなったし、思わなくなった。あと、恋が与える自己肯定感なんて嘘っぱちだったなと思い出したから。きっと恋がしたかった私は、あれこれすっ飛ばしての万能感をもう一度が味わいたかったんだと思う。セックスにはちょっぴり未練があるけどね~。