Kotobanoyukue

自分が何者か忘れぬように

【日常】酒を飲むと死にたくなる

昨日は、子供の習い事のママ友と飲み会だった。ママ友たちはとても常識的で知性的で私よりはるかに「ちゃんとしている」人たち(に見える)。私の底意地の悪さや劣等感の深さ、男好きさ加減、だらしなさ、喫煙者であること、精神薬を常用していることetcなどを知ったら即、私のもとを去っていくような気がする。友達なら去られてもかまわないんだけど、子供がからんでいるので私は良識のある母でいなきゃいけない。だから酒を絡んだ付き合いは避けるのがベターなのに、気が緩んで飲み過ぎた。

 

失言や皮肉が多い私は、日常的に西遊記孫悟空のように、自ら頭にわっかをつけて、「いらぬことをいわぬよう」に生きている。しかし、酒を飲むとこのわっかの存在を忘れ、くだらない人間性がむき出しになる。相手を身踏みするような下品な質問をしたり、逆に不自然なヨイショをして、その場の空気がしらけたり。酔いがさめてくると、時間差で頭の輪にキリキリと頭を締め付けられ、のたうちまわることになる。

 

昨夜もそうだった。調子に乗って話し過ぎた私は、帰宅してすぐに寝るも、午前2時に目が覚めた。このときすでに躁と鬱が入れ替わり、「死にたい~死にたい~死にたい」と、声を上げた(子供にみられなくてよかった)。とりあえず、ヘパリーゼとハイチオールと、胃腸薬と安定剤を飲み、タバコに火をつけた。そして、ipadで「酒 死にたくなる」のキーワードで検索し、同じような人間を探して一瞬の救いを求めた。それでも私の心は落ち着かない。ふと傍らで寝ている子供と夫の寝顔を見て「私が死んでもなんとかなるかな」と思った。いや、違う、私が自殺したら子供はメンヘラになるだろう。将来、つまらぬ男に寂しさを埋めてもらおうとして、恋愛依存になり、あげく(母親が自殺するようなワケあり女は)男に大切にされないだろう。こんなダメダメダメダメ母ちゃんでも、今死ぬわけにはいかない。「死ぬ(ご褒美)」には子供の情緒が安定する成人までお預けだ…。そんなことを考えながら、夜明け頃、中長期型の睡眠導入剤で眠ることができた。

 

飲酒からのパニック状態は、年に1回程度ある(今年は初やね)。これは学生の頃からだ。このパニックの正体は、潜在的に私がゆるーく「死にたい」と思っていることが、アルコールによって表面化しているからだけと考える。アルコールが入らなければ、ここまでひどく動揺することも乱れることもない。

 

私と「希死念慮」の付き合いは長い。私は中学生のころから「こんな邪悪な自分は、会社勤めなんて務まらないであろう」「生きるのって大変そうだから、自分の存在自体を消したい」と思っていた。こんな私は今、会社勤めどころか、子供までこさえてしまい、高コミュスキルが必須の「ママ友」付き合い&ご近所づきあい(夫が地元密着型の店で働いている)をこなさなければならない。家事もロクにしない(できない)くせに、最近はオンラインで通信教育を始めた。自分のキャパ以上のことばかりに手を出して、私はいつも苦しむ羽目になる。今日は長めの瞑想の時間を取ろう。そして最近、さぼり気味になっている、手作り野菜ジュースとジョギングも再開しよう。失敗した禁煙もしよう。ソフト面も大事だけど、まずはおろそかになっているハード面から見直そう。

 

ブログを始めた理由

編集者兼ライターなのに文章力がない

私、編集者兼ライターなんです。7年ブランクで再就職したのですが、あまりの自分の文章力と表現力の乏しさに日々苦しんでいます。周りの同世代の社員に比べ、圧倒的にアウトプット力と表現力がないのです。読書や映画、新しいもの好き人間なので、インプットはそれなりにしているはずのに、次々と忘れる。特に産後、体力がガクンと落ち、夫の“おいた”と、苦手な育児で鬱を発症し、安定剤を常用するようになってから、みるみる頭が悪くなった。語彙力は、勢いだけで乗り切ってきた団塊オヤジレベルにしかない。「もっとずどーんと」「わーってかんじで」とか、擬音語しかでない。

たぶん元々文章力なかった

新卒で入った会社は出版社。私は企画力と行動力があり、なおかつ“空気を察さない性格”が、社風とあっていたようで、わりと仕事ができていた。

でも出版社で働くと、文章を書くのはライター、漫画を描くのは漫画家、デザインをするのはデザイナー。それなのに、全部自分で作ったみたいな気持ちになってたんですよね。

これが私は転職するまで気が付かなかった。スケジュールの調整しながら、企画をどんどんだし(実行するのは漫画家やライター)、夜の街を徘徊し、仲間と酒場でどんちゃん騒ぎしてたら、なんとなく自分がそれなりの業界人でいるような気がしていたのです。でもそれは大きな間違いでした。

今の会社では、就職面接のときが一番元気だった

そんな私が転職限界年齢とちまたで言われている年で、今の会社に滑り込み入社をした。当時は何よりも自信にあふれてました。「私版元で、月刊誌4誌担当してました!ディレクションもしてました!単行本もつくりました!」と、面接のとき息巻いてましたから。もちろん、威勢を張っていて内心不安でいっぱいでした。でも心の奥底では自信があったんです。

文章が書けない…

今の会社は同じ編集者でもライターの要素が8割くらい。しかもクライアントありきの仕事。内容も超固い。資料の内容も理解できない、かつ文章が書けない私は毎日涙目だった。ドトールで過ごした昼休み。たばこを吸いながらいろいろ思いを巡らせていた。前の出版社では、漫画家に「うーん、これじゃ話オチてませんよね?」とか、デザイナーに「もっとパキっとした印象にできませんか?」とか、テキトーなこと言ってたなぁって。作家との付き合いは、まずはよく顔を見せに足を運び、作品ほめまくれば、うまくいった。万が一トラブルがあっても、作家を接待連れて行ってご機嫌どりしていた。

そう、私は頭と言葉を使って相手に思いを伝えることって全然してこなかったのだ。できなくて当たり前だ。人にやらせてたり、相手がこちらの意を汲んで動いていたのだから。思いや意志を言葉に変換する練習が必要だ。その場所をこのブログにしようと思ったのだ。

脳内の引き出しを増やす

先ほども述べたが、私は子持ちワーカーとは思えないほどインプットはしている。基本多動なので、すき時間があれば読書をしたり、外に出かける。でも友達がいないので、アウトプット(会話)をする機会がない。しかも記憶力も老化や薬の服用でどんどん低下しているので、すぐに忘れる。自分の脳内の引き出しが必要な時にすぐに取り出せるようにしていきたい。

まとめ

【私がこのブログを経て得たいもの】

・文章そのものを書く経験

・脳内の引き出しの整理

・思いを言葉に変換する練習

 

基本的に脳のCPUがポンコツなので、書いていてつらいですが、なるべくマメに更新したいです。文章力、表現力のある個性豊かな人気ブロガーさんのブログを見ていると、本当につらいですが、引け目を感じず、私なりにやっていこうと思ってます。応援お願いします。

 

【映画の感想】「ザ・ビーチ」(米・2000年)

レオナルド・ディカプリオ主演のミステリアス・アドベンチャー。自由を求めて未開の地へ冒険する主人公を通し、現実感を喪失した現代のリアルな若者像を浮き彫りにしてゆく。ロバート・カーライル共演。監督に「トレインスポッティング」のダニー・ボイル。刺激を求めてタイのバンコクへとやって来たリチャード。彼はそこで、地上の楽園と呼ばれる伝説の孤島の噂を耳にする。”(引用「YAHOO!JAPAN 映画」)

 

これを見るのは3度目くらい。私の青春時代の映画です。ここ数年間 、私は脳の老化が始まっているので、見たことない映画を見るのがしんどい&アマゾンプライムビデオに古い作品がたくさんあるので、ついつい懐古趣味に走ってしまうのです。うん、でもこうやって人間、老いていくものなんだなと思います。若いときの思い出って美化されていって、だんだん新しいものを受け付けなくなっている。このまま甘んじてたら、ただの老害になってしまうので、ツベコベ言わずに新しい作品(「君の名は」とかも)ちゃんと見ようと思います。

 私の青春時代(2000年代)

学生だった当時(2000年代)、バックパッカーが流行っておりまして、たかのてるこの「ガンジス河でバタフライ」や、蔵前仁一の「ゴーゴー・インド」なんかを私も好んで読んでおりました。海外で自分探しをするなんて言うと、今では鼻で笑われますが、当時はそんな発言も受容される雰囲気がありました。むしろ椎名誠や、沢木耕太郎にあこがれる若者は、「どんどん外に出て見聞を広めるがよろし!」といった風潮だったように思います。ミーハーな私ももれなくその一人でした。「大学生になったのだから海外一人旅をせねば…!」ということで、ベトナムホーチミンに行きました。バックパッカーではなく、普通のホテルに滞在していたから、この映画の主人公ほど気合いは入っていなかったけど、「現状をぶち破る打開策を、外の世界に見いだしてやる」こういった気持ちは、多少なりともあったように思う。そして、得たものもそれなりにあった。たとえば、自分の身を守るために、「ゲゲゲの鬼太郎」のようにレーダーをビンビンにさせることが、ものすごく疲れるという経験。若くて、かわいい女子だった私(21歳)は、常にひったくり、デートレイプ、交通事故、ぼったくりに警戒していた。ここまで緊張感を強いられる経験は、日本ではなかなかないんじゃないかな。日本で生きることは安全なんだなと思いました。

こいつらの自給自足生活はなんちゃってだ!(だからムカつく)

秘境のビーチにある、おしゃれ版ヤ○ギシズムのようなコミュニティは、人間が増えるにつれ、矛盾を抱えきれなくなり、あっけなく崩壊してしまいます。自生した大麻売って現金収入を得ながら毎日パーリーピーポー。こんなパラダイスのようなコミュニティは運営が難しい。(長野県の限界集落大麻コミュも摘発されたね)人に干渉されずに気ままに生きながら、文明社会(快適な生理用品、生活用品)のおいしいどこどりなんて虫がよい。彼らの場合は、なんちゃって自給自足だしね。本当の自給自足なんて、気質(カタギ)から完全に足を洗う覚悟がない人しか、やっていけない世界だ。

 

↓たとえば、こういう人


無人島で孤独に暮らす全裸の男 - In Subtropical Solitude

 

人は国に吸い取られながらも、国に依存し、国に甘えて、そのなかで生きていくしかないのです。凡人はね。今の時代では、高城剛先生やイケダハヤト先生レベルにクリエイティビティにあふれた人ではないと、組織に属さず、国境を越えたり、都心からあえて地方に移住したりという生き方はできない気がする。私は、語学能力も特殊技能もない凡人なので、この国に依存する。少し忙しすぎるけれど、お金がなくても楽しめるし、それなりに満足してる。ただ会社に依存する人生にはしたくないかな。「幸せの青い鳥」ではないけれど、欲しくて仕方のないものは、すぐそこにあったりする。ワンランク上の生活を求めたって、刺激を求めたって、お姫様のような恭しく扱われたって、幸せも不幸せ全ては自分の中にある。その考えをブレずに持ち、たまにバカもしつつも現実(税金とか育児とか老いとか)に向き合って生きていきたい。そんなこと思いながら、この映画を鑑賞しました。

 

学び

この映画の私なりの解釈。

■現実を知るために、若い内に非日常体験をするべき。

非日常を体験すると、自分にとって本当に大事なものは、ごくごく範囲の狭い、身の回りの普通にあったことや人であることに気付くことができると思います。
失敗したって傷は浅い! 若いぶん自然治癒力が高いのです。50過ぎてから非日常体験を求めて、若い女の子に狂うおっさんとかって若いときに非日常体験を堪能してなかったんじゃないかな。(新鮮な気持ちで古女房の尻をなでることもできるのにね)もちろん、年取ってからも非日常体験したっていいんだけど、本気で「やっちまったなぁ!」ってときは、ダメージでかいからね。とにかく、若いうちに非日常を味わうなら手軽な海外旅行がよろし!若者よ、書を捨て、海外に出よう!(古)以上です。

 

ザ・ビーチ (字幕版)

ザ・ビーチ (字幕版)

 

 

 

【ワイドショーネタ】江角マキコと正義

江角マキコ引退!

江角マキコが引退したらしい。

長嶋一茂の妻と確執があったとか。

江角のマネージャーが、

長嶋一茂宅の壁に「バカ息子」と落書きしたとかで話題になったとき、

私は「病んでる人なんだな」と、勝手に確信した。(事の真相はわからないけど) 

結果、潜在的に敵が多かった彼女は、世間やマスコミに

「ほんまは粘着質なやつや!」

「そういうことすると思っとった!」

とふるぼっこにされ、じわじわと芸能界を去った。

私も江角マキコが苦手だった。

私は「正しい」と主張する人が嫌いだから。

だって「われこそ正義」って考え方って、思考停止だから楽チンじゃないですか。

なんだろう、見えないとこから石投げて悦に入るような。

自分の底が浅いから「正しい」って鼻息荒くできていることに、気付いてないような…。だからこそ滑稽で残酷なんですよね。 

数年前「私の何がイケないの?(TBS系)」で、整形やタトゥー、恋愛依存の女性(もれなくメンタルに支障をきたしているお人方)に、美脚を組みながら、超上から目線で本気で説教をしていた彼女。

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でもこの一件で、彼女の場合、私は思った。

彼女の場合、キャラでも表面的でもなく、ガチ中のガチで、「自分のことが正しい!」って思っている人なんだって。

はい、以下妄想続きます。

彼女は彼女のなかでいつも正しいからこそ、時限爆弾をいっぱい抱えてたんではないかなと。彼女の脳は、「出来事に対し、すべてを『正当化』する構造」だった。だからこそ、いつも自信満々でお高くとまっていたんでは…と。

誰だって人に言えないこと、やましいこと、ひとつやふたつ抱えて生きている。

だからこそ、年を取って経験を重ねると、人に対して想像力が豊かになり寛容になれる。もちろん自分の古傷に触れられたくないっていう予防線もあるのかもしれないけど。

彼女だって過去いろいろスキャンダルがあった。フツ―の人は、だからこそ「弱者」には同情的になるもんだけど。それなのにあんなに常に堂々とふるまえていたのは、彼女は中では起こることは「いつも正しかった」から。彼女は「私は正しい」という位置から、いつまでも下りなかっただけという話…。

 「自分教」という宗教は素晴らしいと思います。私は自分がないので、人の価値観に流されまくりです。目の前で起こることにイチイチ反応してしまうので、1日の終わりは精根尽きてます。でも江角さんを見て思った。自分で自分を信じるだけじゃ、足りないのかな、と。

いや、彼女的には、「正しい!」結末なのかもしれないけど。

 

【日常】dokidoki厄払い

厄払いにいってきた

AM10時。地元の寺で贅沢な厄払いをしてきた。これまで私は厄払いといえば、西新井大師など超人気厄払いスポットまで足を運んできたが、そこではお堂には数百人寿司づめ状態。おまけにシステマチックなタイムスケジュールがあり、30分ごとに人を入れ替える。このあまりに自由度が高く、色気のないシステムに若干辟易としていたのだった。

 

地元密着型の寺を見直そう

最近、近所にお気に入りのお寺を見つけた。地元密着型のこじんまりして清潔なお寺。私がお参りに行くと、よしながふみの漫画に出てきそうな若い僧侶が、祈り方などを熱心に教えてくれた。私は来年はここで厄払いしようと密かに心に決めていた。この寺の厄払いのどこが贅沢って、お堂の中には私と僧侶しかいない。私はよくyoutubeで瞑想用にマントラを聞いているが、生のお経はライブ感が全然っ違うのだ。アリーナ最前列で聞く浜田省吾のライブをしのぐ感動だ。なんせ1・5メートルの距離なんだから。

 

 圧倒的なライブ感

彼(僧侶)がロックミュージシャンなら、「今日は、お前のために歌います」と、恋人をステージに上げるかんじ。彼に手を引かれはにかむ私。泣き叫ぶバンギャルたち。僧の息遣い、耳の中で響く磬子(きんす)の音。2枚の木札を打ち鳴らしながら振り回すので、木札が空を切る振動を頬に感じた。バカで承知でいおう。 私はブツブツお経を唱えながらも、頭の中は煩悩に満ちていた。祈祷料を収めているとはいえ、私のためにここまで大声を張り上げて、耳元でカツカツカツカツカツ木札を打ち鳴らしているなんて、動物とか昆虫なら求愛活動ですよね?

 

いったい私の厄(とくに色難)は祓えたのでしょうか。